なあなあ、友達とちょっとした勘違いで喧嘩になって、気まずい空気のまま「じゃあな!」。
って解散しちゃった経験、ない?
実はさ、そんな人間くさすぎる気まずい別れ話が、そのまま地名になっちゃった場所が岩手県北上市にあるんだ。
その名も「相去(あいさり)」。
今回は、このなんだか意味深な名前の裏に隠された、あの有名な伊達藩と南部藩の、ちょっと笑えるガチ喧嘩の伝説を深掘りしていくよ!。
まずは読んでみて!「相去(あいさり)」っていう不思議な地名
今回の地名「相去」。
これまでの鬼や神様の話とはまた違って、なんだか生々しいというか、人間ドラマの香りがプンプンするよね。
どこにあるの?岩手の大動脈が交わる場所
「相去」は岩手県北上市にある地名。
昔から交通の要衝で、江戸時代には岩手の北部を治めた「南部藩」と、南部を治めた「伊達藩」のちょうど境目にあった、超重要な場所だったんだ。
まさに、二つの大勢力がにらみ合う、最前線だったわけだね。
「相(あい)、去(さ)る」…意味深すぎる名前
字をそのまま読めば、「互いに去っていく」ってことだよね。
いったい誰と誰が、どんな理由で去っていったんだろう?。
そこには、領地を巡るプライドをかけた、二人の殿様のちょっとセコくて面白い駆け引きがあったんだ。
【これが由来】伊達と南部の藩境トラブルがガチすぎた!
さあ、いよいよ伝説の真相に迫ろう。
この物語の主役は、ご存知、南部藩のお殿様と、伊達藩のお殿様だ。
そもそもの発端「藩境、どうやって決める?」
江戸時代の初め、どうもこの辺りの南部藩と伊達藩の領地の境目が、かなり曖昧だったらしい。
「ここまではウチの土地だ!」「いや、こっちのもんだ!」って、しょっちゅう小競り合いになってたんだろうね。
そこで伊達のお殿様が、南部のお殿様に一通の書状を送ったんだ。
「なあなあ、こんな風に境界を決めるのはどうだろう?」。
書状の解釈で大モメ!「牛」と「午」の勘違い伝説
その提案は、こんな内容だった。
「同じ日の同じ時刻に、お互いの城を『午(うま)』に乗って出発して、出会った所を藩境にしようぜ!」と。
これを受け取った南部のお殿様、なぜかこの「午」を「牛(うし)」と読み間違えちゃったんだ!。
さあ、約束の日。
伊達のお殿様は馬に乗ってパカラッパカラッと軽快に進む。
一方、南部のお殿様は牛に乗ってのっしのっし…。
結果は火を見るより明らかだよね。
あっという間に伊達側が有利な、南部の土地の奥深くで二人は出会っちゃったんだ。

結局「じゃあな!」と相去った二人
南部のお殿様は「話が違う!書状には『牛』と書いてあったじゃないか!」と猛抗議。
でも伊達のお殿様は「いやいや、よく見てよ。干支の『午(うま)』って書いてあるでしょ?」と突っぱねる。
もう、話し合いは完全に決裂。
結局、二人の殿様は、お互いプンプン怒りながら、その場で「相(あい)、去(さ)って」しまった…。
「相去」の地名は、藩境を決める話し合いで、書状の「牛」と「午」の解釈を巡って決裂した南部藩と伊達藩の殿様が、その場で気まずく「相い去った」という伝説に由来するんだ。
※まあ、これはあくまで伝説で、実際にはもっと前から「相去」の名はあったみたいだけど、こんな面白い話が語り継がれてるってのが最高だよね!。
伝説の痕跡は今も残る?藩境の地を歩いてみよう
こんな人間くさい伝説が生まれた場所、今どうなってるか気になるよね。
藩境塚が語る歴史
実はこの「相去」のあたりには、今も「境塚」といって、当時の藩境の目印になった塚が復元されていたり、跡地が示されたりしているんだ。
こういう場所を実際に歩いてみると、「ああ、ここで伊達と南部がにらみ合ってたんだな…」とか「この道を殿様が牛に乗って来たのかな…」なんて、歴史のロマンに浸ることができるよ。

まとめ:相去は、大名たちの気まずい思い出が刻まれた場所だった!
いやー、まさか大名同士のガチ喧嘩と勘違いが、地名の由来になってるなんて、面白すぎるよね。
北上市の「相去」は、南部藩と伊達藩が藩境を決める際に解釈の違いで揉めに揉め、気まずく別れた「相い去った」という伝説が名前の由来。今も残る藩境の跡が、そんな人間くさい歴史を静かに物語っているんだ。
偉いお殿様たちも、意外と僕らと同じようなことでムキになったり、意地を張ったりしてたんだなあって思うと、なんだか急に親近感が湧いてこない?。
地名を知るって、歴史上の人物の、意外な素顔に触れることなのかもな!。

